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焼鳥一力・秋山尚登の波乱万丈な人生に迫る

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焼鳥一力大将・

『俺は何がやりたいのだろう…?』10回以上の転職を繰り返し、波乱万丈な人生の先に辿り着いた、自分らしい生き方。一本の焼き鳥に情熱をかける男の物語

山口県の宇部新川駅の近くに大人気の焼き鳥店があると聞きつけて取材させてもらいました。

お店の名前は『焼鳥一力(いちりき)』。

お店を運営されている店主の秋山さんと話していると、その人柄と人生物語に引き込まれ、当初予定していた取材時間を大幅に超えるほど、あっという間の時間でした。

情熱をかけた一本の焼き鳥ができるまでの波乱万丈珍道中な人生物語です。

目次

小さい頃から何かにモヤモヤしていた

幼少期の秋山尚登
カスタネットにモヤモヤする幼少時代

気は強く無いけど、目立ちたがりな子供時代でしたね(笑)変に仕切りたがりな所もあって、休み時間に友達と遊ぶ時の内容は、いつも僕が決めてました。

そんな小学生時代の夢は『社長になる』でしたね。なんとなく、人の下につくよりも、人の上に立ちたいという願望があったんだと思います。

ただ、なんとなく自分の中では『なんか俺ってダサいな~』と漠然にモヤモヤしていた感じがします。

楽ができると思って入部したバレー部が急変

中学校に入りバレー部に入部することに決めました。バレー部に仲のいい先輩がいて、その先輩と楽しく遊べるかなー程度のモチベーションで入部しましたね。バレー部の実力も弱かったですし、頑張らなくても良さそうだったので(笑)

だけど、僕が入部した年に、顧問が変わってめちゃめちゃ厳しい顧問になったんです。その先生のお陰?もあって、中学2年生からの試合は全て県大会優勝しました。ただ、バレーが嫌で嫌で仕方なかったですね。逃げたくてしょうがなかったですね。試合に出たくなくて、風邪を引くようにわざと冷水を浴びて身体を冷やしたりしていました(笑)

バレーを辞めたくてしょうがなかったのに、高校はバレーの推薦が来たので、特待生として進学しました。特待生は学費が免除されるので、親の助けになるかなと思ったので。

高校バレー部時代の秋山尚登
バレーに青春を捧げた高校時代

ただ、高校の時はどうしても負けたくないライバルが出現したお陰で、自分からバレーの研究をしていました。今から振り返ると充実していましたね。

『俺は何がやりたいんだろう?』自問自答を続けた苦悩の日々

実家が散髪屋をやっていたこともあり、高校を卒業した後は、福岡の美容学校へ入学しました。ただ、ずっと体育会系で過ごして来たので美容学校のオシャレな雰囲気に馴染めず、すぐに辞めてしまいました。

その後はもう一度体育会系に行こうと思い、大阪のスポーツインストラクターの専門学校に進みました。卒業後は宇部のスポーツクラブで働くことになりました。

ただ、1年で辞めてしまいました。理由は当時の彼女との失恋です(笑)

結婚式場を退職する時の秋山尚登
職を転々とする迷走時代

その後からは、色々な職に就いては辞めの繰り返しでした。結婚式場、古着屋、友人と始めた飲食店、作家として自伝を出版、車の営業、自動車工場、たいやき屋、たこ焼き屋、キャバクラのボーイ、ラーメン屋などを経験しました。

この間もずっと『俺は何がやりたいんだろう?』とモヤモヤしてましたね。

自分の従業員に殴られて、人生を考えるきかっけに

インタビューに答える秋山尚登

新たな転職として、ホテルに入社したんですよ。ただ、『頑張れば支配人になれる!』と言う条件もあって、『支配人』と言う言葉に惹かれましたね!目立ちたがり屋の僕にはピッタリだと思いました(笑)

仕事は本当に頑張りました。勤務に入ると36時間働きっぱなしな日もあるんですよ。その頑張りが認められて、広島の小さなホテルの支配人になりました。

ただ、支配人と言えども勝手がまだ分からないホテルだったので、僕が来るよりも以前から働いていた年上の従業員の方と意見の衝突が多々あったんですよ。それである日、その年上の従業員の方に「なんでそんなこともできんのかー!?」と言われながら殴られたんですよ。それもグーパンチ(笑)

パンチは全然痛くなかったんですけど、すごく心が痛かった。当時は単身赴任中で、2歳になる子供がいる父親が仕事のミスで殴られるなんて…情けなくて仕方ありませんでした。母親と2人で寂しい思いをさせてる子供に申し訳なかった。

「こんな親父ですまない…」、僕は1人涙を流しましたね。今までの自分ならこのまま嫌なことから逃げるように転職してたはずなんです。でも「このまま引き下がれば、俺の未来に明るい光はない」、そう思って本気で今後の人生を考えるようになりました。

数多くの職を経験してチャレンジしてきた僕が、全てが中途半端で何一つ結果を出せていない…。昔思い描いていた「社長になる」という夢と現実とのギャップに「俺ってこんなもんなのか…」と我ながら情けなくなりました。

悔しかった。小学生の時に思っていた『なんか俺ってダサいな~』が、今確実にここにいる自分に当てはまっている。

『くそー、なんなんだ俺の人生、このままくたばってたまるか!!』

あの一撃で僕は目を覚ましましたね。というより『目を覚まさせていただいた』と言ったほうがしっくり来るかもしれません。あの時、思考回路のスイッチが切り替わる瞬間を僕は体験しました。

『本当にやりたいことを見つけて最高の人生にしてやる!』って毎日毎日呪文のように唱えて、僕の30年間を振り返りながら「くたばってたまるか!」「俺なら出来る!」「男になってみせる!」、その為にはどうしたらいいかと自問自答を繰り返しました。

運命の焼鳥屋と出会い

短髪にハチマキ巻いて、煙に目を細めながら、大きな声を出し元気よく焼鳥焼いたらかっこいいやん!

そんな思いが湧いてきて僕はすぐに行動に移しました。使い慣れないネットを使ってカッコよさそうな焼鳥屋を探して見つけたのが福岡の大繁盛店でした。次の休みに広島から福岡に飛んで行ったら、そこには僕の求めていた以上の味と男らしさの詰まった焼鳥屋がありました。

『やっと出会えた』

この感覚をずっと探していたのかもしれません。想いを行動に移すことで、僕はこの焼鳥屋で修行することができたんです。

独立へ向けて

単身赴任中だったこともあり子供が小学生になる時に自分の店を出したいと決めていたので、修行は自分の中で4年と決めていました。なので修行時代の後半は福岡で働きながら山口に自分が出店する物件探しを並行して行っていました。当時はお金も無く福岡と山口の往復に新幹線を使う余裕も無かったので、ハードな日々でしたね。

遂に自分の店をオープン

焼鳥一力の店内

自分がイメージする店が宇部で見つかったので、宇部で出店することに決めました。最初はお金が全くなかったので、10坪22席の小さい店からのスタートでした。

借入金の返済・家族の生活・従業員の給料と不安だらけでした。そこでその不安を少しでも解消するために僕は一つの決め事を作りました。

1年間は何があっても深夜3時まで営業して、どれだけ僕の体がボロボロになっても、少しでも多くの人に店の存在を知ってもらって、少しでも多く売り上げを上げて必ずこのチャレンジを成功させてみせる!

もう意地でしたね(笑)朝10時から仕込みして、忙しい日は片付け終わって帰宅するのが早朝5時。でもこの自分との約束のおかげで少しずつ、間違いなく自分の理想の店へと変化していきました。

お店をはじめて嬉しかったこと

焼鳥を焼く秋山尚登

ありがたいことにお客さんも増えて、自分のキャパを超える業務量になって来て、どうしても人手が必要になって来たんです。

その時に、知り合いの大学生の子にバイトをお願いしたんですよ。その子が当時卒業論文を仕上げている最中だったんですけど、それでも手伝ってくれたんですよ。「秋山さんの頼みだから力になりますよ!」って(笑)当時の彼の存在が無ければ、今の一力は無いかもしれませんね。

スタッフは本当に宝だと感じました。今でも年に1度は岡山と茨城からお店に食べに来てくれるんですよ(笑)そういう人間関係が築けて嬉しいですね。

これからの夢

仕込みをする一力の従業員たち

とにかく今は仕事が楽しいんですよね。僕、今まで3年以上、一つの仕事が続いたことが無いんで、過去の僕を知っている友人からはびっくりされています(笑)

これからは『楽しい』と感じることを形にしていきたいですね。諦めるための理由を探すのではなくて、形にするにはどうしたらいいのかという『突破口』を探していきたいです。

ただ昔と違うのは、自分が目立ちたいと言う感情が無いんですよ。それよりも、従業員や周りのみんなが楽しいと思える環境を作って行きたいですね。楽しいと思える環境を作る「黒子」みたいな存在でもいいかなと思ってるくらいです(笑)

最後に山口県に対して

僕がワクワクすることを作って行くことで、山口県の為になるのかな?と思ったりしてますね。損得だけを考えると身動きが取れなくなってしまうので、それよりも直感で楽しいことを山口県でやって行きたいと思います!

秋山 尚登(あきやま ひさと)

1980年7月6日(37歳)
出身:山口県美祢市
株式会社チカラ商会代表

焼鳥一力大将・

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